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婚活応援コラムVol.33

瞑想について

瞑想については何度か書いてきました                            これまで何度か瞑想についてコラムで書いてきましたが、客観性を維持しようと意識するあまり、先達のお考えを引用させてもらうなどしており、自分の体験に基づいてお話することができずにおりました。これからお話することは、すでにお話したことと基本には変わりませんが、より自分の体験と体験から考えたことを中心に、再構成してお話しようと思います。

 

瞑想は婚活に役立つのか                                      婚活に役立つのか役立たないのか?というと、役に立つと思います。瞑想は婚活に限らず生きてゆくうえで役に立ちます。ただし一朝一夕には効果が出ません。婚活、ということでいえば結婚相談所でお見合い10回した方が短期間に成果が出るでしょう、残念ながら。しかしながら、瞑想すれば、自分で感じてそれを基にして考える力がつき、周囲から入ってくる自分のためにならない考え方をより分けて自分を守る力は確実に養われるでしょう。

 

しかし瞑想はすべての人に必要、というわけではない                      しかしながら、全てに人に必要というわけではない、というふうに私は考えています。また、すぐに効果が実感できる、ということも言えません。当然取り組み方によっても違います。しかしながら真剣に取り組んで入れば、メリットは享受することができます。

 

瞑想が必要な人=役に立つ人と瞑想が不要な人                         私がやっている瞑想は、ヴィパッサナー瞑想と慈悲の瞑想です(以下では合わせて「瞑想」といいます。)。諸説あるようですが、ヴィパッサナー瞑想は、釈迦が悟りを開き、そののち弟子となったものに教示した瞑想と言われています。                                 釈迦が説いた法は「苦からの解放」ですので、簡単に言ってしまえば「私には苦はない」と考えている方には不要、ということになります。「わたしには苦はないと考えている方」とは、苦しんでいても、それが苦であり、苦から解放される方法がある、と認識していない人も含みます。

 

宗教は余計なおせっかい                                    苦があると感じていない人に、死後の苦や、先祖や子孫の苦しみを説いて、自分たちの信仰をセールス(布教)するのであれば、それは余計なおせっかいなように感じます。おせっかいを超えて、迷惑ともいえます。苦しみからの救いを信仰に求めるのであれば、それは自発的なものであるべき、と考えるだけで、信仰を否定する意図は全くありません。私は無宗教ですので、瞑想の勉強として仏教を学んではいるものの、仏教徒ではありません。ここでいう「仏教」は、根本仏教や原始仏教、現代ではテーラワーダ仏教と言われるもので、日本に伝わった大乗仏教ではありません。                        ヴィパッサナー瞑想については釈迦の得たもの、伝えたものに拠り所を求めざるを得ませんので、仏教を学び、瞑想のご案内のために仏教のお話を引用しています。布教等の意図をもって瞑想を紹介しているものではありません。                                    ちなみに仏教には不飲酒戒という戒律があり、お酒は飲んではいけないことになっています。釈迦が酒は飲まぬがよい、と言われたことが理由とされていますが、戒律として制定したのは教団であったようです。私はワイン好きなので、お酒なんか飲まずに瞑想しなさい、などとは残念ながら言えません。

 

仏教の「苦」という概念は現代ではわかりにくい                            仏教では「生老病死」を4苦、4苦に愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦を加えて8苦として「四苦八苦」と言うそうです。                                   四門出遊という話があります。釈迦が修行生活に入る前、出かけるときに4つの門で老人、病人、死人、修行者を観て、修行生活に入る決意を固めた、というお話です。それがもととなって「老病死」が苦とされ、釈迦が生きた時代には「生まれ変わり」は疑いを入れない事実と信じられていたようですので、「老病死」が苦ならば、生まれてくることが苦の原因である、生死の繰り返しから脱すれば「老病死」からは解放される、ということで「生」と「老病死」が4つの苦であり、釈迦は4つの苦から解脱する法を説いたという「理論構成」ができあがったのではないでしょうか。                               釈迦は王族に生まれたそうですから、働く必要はなく、おいしいものを食べて王城にいて体を動かさない生活であったならば、現在に生きる私たちからみれば、まったく不健康な生活と言えます。四門出遊にしても馬車で出かけたようです。筋力は維持できず、筋力の衰えにより基礎代謝の減少、睡眠の質の低下、姿勢が悪くなることで内蔵に負担がかかり、体調もすぐれず精神的にも厳しい状況だったではないか、そのようなときに老人、病人、死人、修行者に遭遇して人生に悲観的になり、修行に救いを求めたのではないか、などとも空想してしまいます。

 

釈迦の神格化                                        釈迦の教えを受け継いでいった人々は代を重ねるにつれて釈迦を「神格化」していったようです。それは「釈迦」を貴ぶという形を取りながら、自分たちが携わる宗教や教理をより尊いものであるとアピールするためであったように思います。そのように考えると経典を読むときに、釈迦が語っていないことや、改変や付加されたものもあるだろうということも意識しなければなりません。

 

現在では・・・                                       すべての人とは言えませんが老人は元気です、寿命も伸びています。病気のすべてが治癒できるわけではありませんが、制度としては国民階保険です。死に対する考え方も変わっているでしょう。だからと言って老病死の悩みが全くなくなったわけでありませんが、釈迦が生きた時代とは大きく変わっている、と考えてもよいと思います。                                

 

経典にかいてあることには注意する必要がある                         経典に書いてあることすべてが釈迦が語ったことをリアルタイムで記録した(文字にした)ものではないようなので、あくまでも個人的な見解ですが、経典には注意が必要なように思います。                                     釈迦の教えに接することができなかった方が、釈迦が語らなかったこと(しかし後世の人としては知りたいこと)は、このようなことであったのではないか、これを後世の人に残す方がいいのではないか、と考えて釈迦の教えを補う=付加・改変することもあったのではないかと思います。また、自己の属する教団の教理をより明確にし、教団の立場をより強固にすることになるのであれば、付加・改変、理論の再構成をためらう理由はより希薄になるように思います。                                     「釈迦が語らなかったこと」は、釈迦の教えを自らが実践することによって自らが知る(証明する)という手順を踏む必要があり、その結果として解脱がある、という仮定に立てば、敢えて釈迦は語らなかったとしても不思議ではありません。あくまでも私見です。

 

「八正道」についても釈迦は具体的には語っていない                       これは何が正しい道、行いなのかは自分と法(≒真理)を頼りに見つけ、それを実践しないさい、ということなのではないかと思います。八正道とは、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定のことです。検索すると八正道とはこれこれこういうことですよ、と解説が出ています。しかし阿含経の中では、釈迦は具体的な内容は語っていません。解脱に至る方法としての八正道の内容と実践は、瞑想を通じて自らがつかみ実践してゆくもの、その先に解脱がある、というのが釈迦の指導方法のように思います。                                           多少なりとも瞑想を続けていると、その言葉を発した自分の意図を理解することができるようになります。その言葉を発した意図が、怒りや自己をよりよく見せようとする渇愛からのものであることもあります。そうすると正見(ただしく理解する)ためには正思(正しく考えること)、正語(適切な言葉をつかうこと)が必要でああり、正しく考えるためにには、正見(正しく理解すること)、正語(適切な言葉をつかうこと)が必要であり、適切な言葉を使うためには、正見(ただしく理解する)、正思(正しく考えること)が必要であるとの思いに至ります。                                 そのような思いに至ると阿含経の中に出てくる釈迦の言葉が正語なのではないかとおもえてきます。それは「釈迦の言っていることだから正しい言葉である」という意味ではなく「釈迦の話し方は八正道の正語を実践した話し方」であるという意味です。                        後世の仏教は自らが探し出すべき答えをあらかじめ用意し、用意した答えを教授することや、さらに高度な理解に至ったのだということを喧伝することに専念してきたという印象を受けます。

 

もしかしたら釈迦は…想像です                                  釈迦も、運動不足から体調がすぐれず、精神的にも厳しい状況の中で、悲観的になり自分なんて何の役にも立っていない、自分なんて生きる価値がない、このまま老いてゆき、病に苦しみ死ぬしかないのだ・・・などと悩んでいたのかもしれません。しかし、このようなことを仮に釈迦が弟子に語ったとしても、それはそのまま伝承されなかったのではないかとも思います。                                なぜそのように考えるかというと、釈迦は、世俗的な人間としての悩みからからではなく、人間が抱える根本的な苦である生老病死に心を痛めて出家した、というストーリーの方が、僧伽の存立上、都合がよいのではないか、と私には思えるからです。僧伽を存続させるためには僧伽外の人から支持を集め、寄付してもらう必要があるので、生老病死は全ての人にとって苦である、釈迦はその生老病死について深く心を痛め出家し、生老病死の苦から逃れることができた、私たちは釈迦にならって生老病死の苦を滅するために修行している、というストーリーは僧伽外の人にもアピールするに好都合であったのでははないか、と想像したりもします。                                      誤解を招かないようにお伝えしておきますが、瞑想に関しては、釈迦の言われたことが唯一の拠り所であると思っています。釈迦を尊敬しこそすれ、貶める意図は全くありません。釈迦の言われたことはどのようなことであったのか、ということを知りたいと考えお経に答えを求めるときに、お経はその長い伝承の過程で改変されてしまった部分があるだろう、という前提で考えたほうがいいのではないかと私は思っている、ということです。           

 

それでは「苦」とはどのように理解すればよいのか                                    端的にいうと「よりよく生きるために支障となるもの」と考えれればよいのではないでしょうか。災害や戦争、病気や飢餓で苦しんでいる方はたくさんいらっしゃいます。それらの方の「苦」を釈迦の「苦からの解放」される方法で、直接的に直ちに救えるかというと、それはできないように思います。宗教家ではないので確定的なことはいえませんが。                                 宗教には「厳しい環境にあっても信仰によって苦難を乗り越えられる」という考え方もあるでしょう。また信仰によって、苦難に見舞われた方々を献身的に支援されたり、多額の寄付をされている宗教団体や個人の方は多数いらっしゃいます。

 

「苦」は嫌なこと、不快なこと「ストレス」と考えてもよい                                        瞑想が「苦からの解放」の役に立つ、というときの「苦」とは、日常生活の中での嫌なこと、不快なこと、と考えれば納得性が高いように思います。ストレスと置き換えてもよいと思います。嫌なこと、不快なことから逃れたい、ということであれば瞑想は役に立ちます。健康にも役立つように思います。                                                      特定の信仰をお持ちでないのであれば、瞑想を始める動機として、嫌なこと、不快なことから逃れたい、という理由で充分だと思います。                                           出家して修行に専念し(労働をしない)、解脱してこの世のあらゆる苦から解放された人(仏)がいたとしても、それによって直ちにあなたの苦(嫌なこと、不快なこと)がなくなる、ということにはならないように思います。その反面、信仰によって乗り越えられる、という考えをお持ちの方もいらっしゃるかもしれませんので、そのお考えは尊重いたします。                                    瞑想に取り組むことによって、日常生活での嫌なこと、不快なこと(と感じること)から逃れたいと意図し、Quality of life(人生の質)が上がるのであれば、自ら瞑想を始めて苦から解放されよう、と意図することは自然な成り行きであるように思います。                                 

 

苦からの解放は「その人の個有のもの」                              仏教では貪瞋痴を好ましくない人間の性向といいますが、貪:貪り(ここでいう貪る、とはそれを求めずにはいられない状態を言います)の対象は人それぞれですし、瞋:怒りも何に怒るか、何に反応して怒りが起こるかは人それぞれです。                                  貪瞋痴を離れて、心穏やかに生きようとするには、自分の心の動きを観て、貪瞋痴を観て、自分が貪瞋痴からの解脱を探してゆくしか方法はない、と言いかえてもいいのかもしれません。                                   一般論として欲を捨てよ、煩悩を捨てよ、というのでは何の役にもたたないように思います。そもそも欲を刺激することで成り立っている自由主義経済資本主義経済の中で、日常生活を維持しながら、欲を捨てよ、煩悩を捨てよという一般論は、あまり意味のあることにはではないように思えます。                           自分の苦しみを観てその原因に欲(貪)があるのであれば、その欲をコントロールすれば、苦をコントロールすることができる、ということになります。一般論、原則論=教理だけでは、心穏やかに生きる道は見つけられない、と仮定すれば、釈迦のように、語らないことによって、自分が見つけることでしか得られないことは、あなたが探しなさい、と言わざるを得ないのではないかと思います。釈迦が語らなかったのは、「秘伝」という考えからではないようです。阿含経の中で、釈迦は、私には「握拳はない」つまり、自分が得たもので弟子に対して秘密にしているものはない、と言っています。握拳とは、握りしめて拳の中に隠しているもの、ということだそうです。しかしながら自分が得たものを惜しみなく弟子に与えたとしても、それで苦から解放されるわけではありません。苦から解放されるには、釈迦の導きに従って自分が苦を滅する道筋を通らざるを得ないでしょう。

 

「梵天勧請」の意味するところ                                      釈迦が完全な解脱を得たとするならば、釈迦には苦はもちろん欲も怒りも無知(貪瞋痴)もなかったはずですから、自分の解脱を語る欲求すらなかったでしょう。なぜならば、釈迦は究極の境地に至ったことにより満ち足りており、解脱を周囲に語るという欲求も生じなかったと思われるからです。                しかし釈迦は自ら得た解脱に至る道を説き始めます。この原因を経典は、釈迦が梵天から、釈迦の得た悟りを他の者にも教るうよう求められたから(梵天勧請)ということに求めています。それは完全に解脱して自己の解脱を語る欲求のない者が教えを広める理由として、提示されたもののように思います。釈迦が直接語ったものであれば、それは解脱を語る欲求のない釈迦が、梵天から求められたからだというロジックを用いて説明(方便)したのかもしれません。                    また、釈迦に、苦からの解放に至る道を他者へ説いて他者を苦から解放するという「新たな欲求」(慈悲)が生じ、その欲のゆえに、完全な解脱に至ることを放棄して、解脱に至る道を説き始めたことを梵天勧請によって説明したのかもしれません。このように考えると、完全な解脱に至り(如来となって)天上界に生きることを望まず、この世で人々の救済に当たる「菩薩」という後の考え方と重なるところがあります。                                                                  

 

瞑想にはメリットがある、しないからといって不利益はありません                      瞑想が全ての方に効果はあっても、全ての方に必要というわけではないように思います。私も全ての方に進めるつもりはありません。わざわざ瞑想なんてしたくない、という方には、逃れたい嫌なこと不快なことがない、もしくは嫌なこと不快なことがあったとしても、やり過ごせる程度のものなので、それはそれで幸せな生き方をしている、ということになりますし、そもそも人生とはそういうものかもしれません。そう考えると、わざわざ時間と労力をかけて瞑想をやる必要がある、とは言えないように思います。私が、瞑想がすべての人に必要、とは考えない理由です。

 

嫌なこと不快なことから逃れたい、という動機で充分だしそれがすべての始まり                         嫌なこと不快なことから逃れたい、心穏やかに生きたい、ということを感じていれば瞑想に取り組む動機としては十分なように思います。釈迦の出家については、四門出遊が語られることが多いのですが、「わかりやすい話を後世の人が作った」ようにもおもわれます。釈迦は王族の生まれであったようですから、釈迦であることを伏せてこの話をすれば、聞いた人の反応はわざわざ王族の地位を捨てるなんて馬鹿者のすることだ」ということになるでしょう。しかし王族の立場を捨ててまで修行に出て、世の人を救う法をみつけた、と伝道することは釈迦入滅後の人々にも釈迦に畏敬の念をいだかせ、伝道する人たちにもメリットがあったことでしょう。今日に伝わる経典が、釈迦が話したことをリアルタイムで記録したものではないと思われる以上、釈迦の出家の理由は判りません。

 

メリットがあるならやってみる、でもよいがメリットを得るには注意点がある                         瞑想のメリットを享受したいという動機から瞑想を始めることは、自分の利益が目的となっていると言えます。それが瞑想を始める理由としてダメ、というわけではありませんが、注意しないと自分の利益、つまりは渇愛(貪瞋痴の貪)を強化することになり、瞑想の効果が出にくくなる可能性があります。自分の利益や欲を全否定する必要はもちろんありません。欲の全否定は非現実的です。ですが自分の利益を目的とする心は、瞑想の中に持ち込まずに瞑想をしてください。そうすれば効果は出ます。                                スリランカ仏教界の長老アルボムッレ・スマナサーラ先生はこのように言っています『「ヴィパッサナー瞑想」は、涅槃に至るほどすごく効き目があるので、会社でうまく仕事ができるとか、家庭でけんかをしないで平和に過ごすとか、身体の健康とか、そんなものはいとも簡単に得られるということです、日常的な目的は、やすやすと達成できる方法です。ただし、「ヴィパッサナー瞑想」を実践する時の目的として、成功したいとか、美しくなりたいとか、そういう風には考えないでください』(「現代人のための瞑想法 役立つ初期仏教法話4」サンガ刊 )

 

瞑想の「外」で自分の「意思」として成婚を目指すほうがよい                       瞑想とは別個に、「結婚したい」願望、「結婚出来たらいいな」希望を、「結婚する」意思にしたらよいのではないかと思います。「願望」「希望」を「意思」にする方法としては朝起きたとき、夜寝る前「私は私の意思として〇〇年〇〇月までに結婚します。」と3回唱えてみてください。声に出しても声に出さなくてもかまいません。日本人は、合掌すると心が落ち着くようなので合掌することも効果的かもしれません。                                         少し精神論っぽいはなしですが、もし仮にあなたが瞑想を行っていて集中力が高まっていれば、効果は期待できるように思います。心随観まで進んでいるのであれば、自分の婚活をネガティブにしてしまう感情を観てその原因となるものを観て取り除けばよいでしょう。さらに明日(就寝前)、今日(起床時)自分はどういう気持ちで過ごしたいか、何をするかを決めて1日をスタートすればより良い結果に近づくように思います。                                         大事なことは、うまくゆかなくてもうまくいっても続けることです。うまくゆかないと効果がないと思いがちですが、そんなことはありません。「結婚する」意思を明確に持ち続けることで、うまくゆかなくても「解決策はないか?」「打開策はないか?」と考える原動力になります。つまり「結婚する」意思はあなたに「智慧」をもたらします。

 

瞑想のメリットを得るために信仰は必須ではない、と思っています                繰り返しになりますが、ヴィパッサナー瞑想は、諸説ありますが、釈迦が解脱を得たのち、弟子たちに教示した瞑想法であるとするならば、釈迦の考え方・方法論に従う必要はありますが、そのことと仏教への信仰は別のことと考えます。                               ヴィパッサナー瞑想を伝えてきた仏教(テーラワーダー)教団内では、当然に信仰を前提とした瞑想となるのでしょうが、信仰がない人がヴィパッサナー瞑想をやっても効果は得られるものと思います。 ヴィパッサナー瞑想は、テーラワーダーの専有物であり、信仰者以外のものはやっても意味はない、ということではないように思います。

 

ヴィパッサナー瞑想は「エクササイズ」と考えるとわかりやすい                            毎日呼吸の瞑想をしていても、開始直後から呼吸を観ることができるわけではありません。姿勢を整え、呼吸を穏やかに整えて心が落ち着いてくると妄想が出始めます。妄想により感情が生起していることを感じ、妄想を「離して」呼吸を観ることに戻ることを繰り返して、次第に呼吸に意識が随伴してきて(不即不離という感じになります)呼吸を観つづけることができるようになり、妄想と妄想による感情の動きがなくなります。                                  この過程は「エクササイズ」と考えると取りくみやすいと思います。「エクササイズ」なので効能を理解しただけでは成果は出ず、自分でやらないと成果は出ません。

 

「エクササイズ」と考えると「肉体改造」とも理解できる                     姿勢を整えて、呼吸を観ながら呼吸を整えることを続けているとフィジカル面からもいいことがあります。日常での呼吸がより良いものになります。人間は1日2日食べなくて死にませんが、5分間呼吸をしなければ死に至ります。良い呼吸をすることはとても大事です。                    腰を立て背筋を伸ばし、姿勢を維持しながら呼吸に集中できる姿勢を長時間にわたって維持することは、姿勢を維持するために必要な部位には必要な力を入れて姿勢を維持し、それ以外の部位からは完全に力を抜く、という高度な体の使い方が必要です。腰の筋肉は鍛えられるので座っているときの内臓への負担は少なくなります。姿勢の維持に関係しない部位の力を抜くことで無駄なエネルギー消費は少なくなくなり長時間座れるようになります。

 

瞑想のメリットは?                                      すごく判りやすいところから言うと、瞑想を日常的にするようになると、仕事中、ランチの後に眠けに襲われる、ということがなくなります。                            なんだそんなこと?と思うかもしれませんが、仏教では「五蓋」ということを言います。智慧の発現を五つの蓋が妨げているので「五蓋」というそうです。「五蓋」をとりのぞけば智慧が発現する、という理屈です。                                        「五蓋」の中に「昏沈睡眠」というものがあります。昏沈は、気持ちが重くなって落ち込むこと、睡眠はいまやっていることに集中できず眠くなることで、睡眠が悪い、ということではありません。言い換えれば瞑想を日常的にするようになると、初期の段階で睡眠、つまり今やっていることに集中できなくて眠くなる、という状態からは脱することができる、ということになります。集中して物事に取り組めば、心があれやこれや考えて煩わされることがなくなり、スッキリします。心があれやこれや考えることがなくなればミスも減るでしょうし、速く終えることができます。自分だけでなく、周囲の方にもメリットがあります。

 

さらに日常的なメリットを言うと                               座る瞑想を続けた場合、集中するためには姿勢の安定と穏やかな呼吸が必要になります。継続的(毎日)に、姿勢を安定させることにより、腰の筋肉が鍛えられます。一定の時間安定して座るには、猫背にならないように、肩の力を抜いて腰に上半身の体重をのせてバランスるを取ることが必要になります。この姿勢を維持するためには、必然的に腰骨を立てて垂直にして腰にかかる重量を支える必要がありますので、腰の筋肉は鍛えられます。腰の筋肉が鍛えられると、日常での姿勢が良くなります(婚活にもメリットあり)。日常的にスポーツや運動をしている方と同じです。日常での姿勢が良くなると、猫背に比べて内蔵への負担が減り、胃や腸の働きが良好になります。私は胃が弱いようで胃の働きが悪くなると腸の働きもわるくなり、そうなると明確に意欲の減退を感じます。胃腸等の内臓の働きが良好であることは、意思や意欲の働きの良し悪しにもかかわってくるように感じます。                                     逆もまた真なりで、例えばスクワットや腹筋運動で腰の筋肉や腹筋を鍛え、瞑想時の姿勢が安定し、呼吸が静かに滑らかにできるようになると、瞑想への集中は高まります。

 

集中力が高まります                                       そもそも瞑想は、集中力と観察力を高めることによって、自己を観る力を養い、それによって真理(法)を観て苦からの解放に至るという手順をとるものなので、当然に瞑想は集中力を高めます。                                   具体的には、最初は呼吸を観ます。呼吸という単調な体の動きを観て言葉にして確認してゆきますが、意識の対象はすぐに妄想=自分の頭になかの「想像」に向かってしまいます。人間は単調なこと、意味がないと感じられることをやり続けることには抵抗をおぼえますから、妄想に意識が向かうのは当然といえば当然のことです。                                   妄想に意識が向かったことを観たら、意識の対象を呼吸に引き戻すということを繰り返し行うので、呼吸に意識を集中する、という訓練をしていることになります。妄想を手放すという「執着しない、こだわらない」訓練を行うことになりますから、妄想に「執着しない、こだわらない」ようになれば呼吸に、より意識を集中できます。                                     集中することによって呼吸を含めた体の微細な変化、体の感覚の変化を感じ取ることができるようになり、観察力が高まります。観察力が高まることで集中している状態、集中していない状態も観て識ることができるようになります。呼吸への集中力と観察力が高まると、体の微細な動きや体の感覚の変化だけでなく、感覚や心の状態を感じるとることができるようになります。瞑想の段階でいうと身随観ができるようになり、受随観、心随観の段階に入ってきた状態、ということになります。

 

集中が進むと解放された感覚になる                              瞑想中に一定程度集中できると解放された感覚を味わえます。解放されて自由な感覚を得ながらも瞑想対象に集中している、という理屈の上では矛盾する感覚です。私はこの感覚を感じた後、道元の「座禅は大安楽の法門なり」という言葉を思い出しました。

 

不安がなくなります                                        ヴィパッサナー瞑想の(手段としての)目標の一つは、事実と妄想をより分けることです。これを呼吸の瞑想に当てはめれば、自分の呼吸は今ここで行われていることなので事実です。呼吸の瞑想の時に、呼吸を観ることから離れて、心に浮かぶ過去のこと未来のこと今ここで起こっていないことは、今ここに無いので妄想=概念です。呼吸を観る瞑想により事実と妄想・概念をより分ける訓練をすることと、集中力観察力を高めることにより、自分の心に妄想(不安も妄想)が生じるメカニズムを観る(理解する)ことができるようになることを目指すようですので、瞑想の進展により不安は少なくなってゆきます。ただし初期の段階では、集中力と観察力が高まったことによって、今まで見過ごしていた(不安を生じる)要因に対しても、心が認知するようになり、不安を感じやすくなる、ということはあるようです。ですから、楽したい、という方にはお勧めしません。瞑想の進展に伴い、感覚が敏感になり一時的にはつらくなることもありますので、つらいことの先にある「嫌なこと不快なことから逃れ」「心穏やかに生きたい」という目的がある方であれば、瞑想を始める動機は十分、という説明が良いと思います。

 

心は落ち着きます                                           心が落ち着いた状態というのは、呼吸の瞑想でいえば、今ここにあることのみを観て(意識が呼吸に随伴するようになる)、「今ここに無いこと=妄想」が心に起こっていない状態です。この状態を経験をすると、「今ここに無いこと=妄想」が心に起こっているときは、妄想とともに感情が生起し、心が波打っている感覚を持つようになります。心が波打っているように感じることを体験(観ることが)できれば、心が穏やかな状態とはこういうものか、ということがより理解できます。

 

「心随観」にまでゆけば悩み苦しみをなくすことが可能です                    繰り返しになりますが、ヴィパッサナー瞑想は体の感覚を観る「身随観」で集中力と観察力を強化します。集中力と観察力が強化されると、感情感覚をみる「受随観」、心を観る「心随観」に至ります。                       「心随観」に至るとさまざまな「苦」を明確に観ることとができるようになります。そして「苦」とともにその原因を観ることができるようになります。原因を観て、原因を解消すれば「苦」はなくなります。この道筋を自ら体験すれば、釈迦の教え「四聖諦」を自ら体現したことになります。そしてこの段階はすでに「法随観」に入っています。                                      仏教の講和などでは煩悩が苦の原因と言われることが多いようです。                      この考え方はヴィパッサナー瞑想の順序とは逆のようです。ヴィパッサナー瞑想の順序は、観察力を高めて自分の心を観たら、自分に苦があった、苦を観たら苦をもたらす原因があるようだ、原因は何かと観たら、自分の過剰な期待(欲貪)であったり自分の欠乏感をいやすものを外に求めること(渇愛)、不合理な思い込み(痴)、「今この場にない過去」のことに執着して怒る気持ち(瞋)である、これらを観(理解し)たら気持ちが楽になった、というのがヴィパッサナー瞑想の順序です。       「煩悩が苦の原因」とうことは長い時間をかけて仏教がつくってきたエッセンスですが、それを聞いただけではなかな「苦」の消滅には到達できないように思います。                「苦」の原因の消滅に到達すれば、それが四聖諦」の体現であり、瞑想はそのための方法と言ってもよいように思います。                                            瞑想を「エクササイズ」といったのは実践しなければ効果はありませんし、実践すれば相応の効果が期待できます、というふうに考えているからです。                                             

 

欲とは異なる原動力「意思」を観ることができる                        自分の体の動きや体に感じる感覚を観て、感情を観て、心の動きを観ることができるようになれば、意思を観ることができるようになります。意思を観ることができれば「欲」(自分に無いは外部にあるものを求める気持ち)とは異なる、自分の「原動力としての意思」を育ててゆくこともできるように思います。「意思」を強くする、ということです。                          例えば、瞑想を、「自分はに無い外部にあるもの」を求めてやるのであれば、「欲」が原動力となります。しかし「自分に無い外部にあるもの」を求める気持ちを、いったん瞑想をすることの動機からは外して、瞑想を行うことの意味を理解し、自分の意思として瞑想に「集中」することを選択するのであれば、それは自分の意思を「強化する」になります。

 

欲を否定する必要はありません                                                         誤解を避けるために申し上げれば「欲」を全否定するつもりはありません。「欲」はたぶんすべての人に存在するものですし、そもそも「欲望」を肯定し「欲望」を刺激することによって経済を回している現代社会で生きている人に、一律に「欲」を捨てよ、というのは、現代社会で生きることを放棄せよというに等しいように思います。欲を捨てるためには「出家」(日本の出家ではありません。労働せず解脱を目的としてた生活を送ること。)が必要になるでしょう。                                      「欲」を捨てなさいというのではなく、自分の心を観て、自分を苦しめたり自分の判断を誤らせる原因となる「欲」(自分に無い外部にあるものを求める気持ち)があれば、その欲を制御すれば結果として幸せになれますよね、というのが瞑想の考え方だと思っています。                           婚活であれば、結婚によって「自分」がより幸せになるりたいという「欲」からのスタートであっても、自分が幸せになり、相手にも幸せをもたらすものであればスタートが「欲」であっても結果は「良いこと」だと思います。結婚への「意思」を確かなものにすれば、「欲」だけではなく「意思」という原動力を手にすることになります

 

何故そのようメリットがあるのかと言えば、瞑想がそのように設計されているから         私の瞑想経験は10年と少しですので、たいして境地は進んでいません。当然解脱からは程遠い状況です。ではなぜこれだけメリットを説明できるのかというと、ヴィパッサナー瞑想は、その様にできている、設計されていると考えられるから、と回答するのが適切なように思います。ヴィパッサナー瞑想の本来の目的から言えば、集中力が高まる、不安がなくなる、心が落ち着く等は、解脱に至る途上での「小さな果実」と言えるものにすぎないのかもしれません。しかしながら解脱に至らずともこれらの「小さな果実」が得られるのであれば、瞑想に取り組む価値はある、と考えています。

 

瞑想の大敵は価値判断や概念                                 瞑想は、自己の心に生じたものは「生じた」と観るので、「こういうことを考えるのは良くないこと」という価値判断があると、自分の心をありのままに「観る」ことの妨げとなる場合があります。                                 飛躍した話をすれば、人を殺すことは悪いことやってはいけないことですが、「殺したいと思うくらいの怒りを覚えた」のであれば、そのような気持ちが生じたことを観て(この場合の観るは、心に生じたことを識るということです)、生じた心の状態を観て何故その気持ちが生じたのかという原因を観て、その原因が自分にとって必要なものではないと観ることができれば、「殺したいと思うくらいの怒り」は、やがて生じなくなるでしょう。人を殺してはいけない、という価値観から「殺したいと思うくらいの怒りを覚えた」という自分の心に生じた気持ちを無理やり押し隠して「ない」ことにしてしまえば、「殺したいと思うくらいの怒り」を、生じないようにする機会を得られないことになります。在るものは在る、生じたものは生じたと観て、自分の心に及ぼした影響とその原因を観ることによって、そのような感情が生じないようにすることで、貪瞋痴を離れ、貪瞋痴をはなれることで物事をありのままに観ることができるようになる、という経路となるようです。貪瞋痴を離れありのままに観ることができるようになった心を、きれいな心といい、きれいな心によってもたらされるものを智慧というようです。                          価値判断は一律のものではなく、各人において自己の心を観て、自己の心に生じるものを観て判断するもの、ということになりす。

 

価値判断が大敵なら「殺したいと思うくらいの怒りを覚えた」ら殺していいのか?                                                                ヴィパッサナー瞑想は、ヴィパッサナー瞑想だけでなく下記の「慈悲の瞑想」とともに行うことが推奨されています。ヴィパッサナー瞑想で自分の心を観て知り、慈悲の瞑想により、価値判断としてではなく慈悲喜捨の心を養い、人を傷つけ害するような意図や感情を起さず、自分も他者もともに幸せでであれと願う心を養い、心をきれいにする、心をきれいにすると智慧を得ることができる、ということを瞑想のシステムは用意している、ということであると、私は理解しています。念のため付言しておきますと、慈悲の心を養えば法令は遵守しなくてよいと言っているのではありません。自分たちが生きる社会のルールには従わなければなりません。

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価値判断や概念を離れると智慧が生れてくる                             慈悲の瞑想により人を傷つけ害する意図や感情を起こさな心を養うとともにヴィパッサナー瞑想により、自分の心に生じた感情や考え方を識り、自分の中にある自分が意識していない価値判断や概念を識ることで、自分の心は価値判断や概念から解放されます。価値判断や概念から解放されると心が自由に動くので、ベストプラクティスの発見が容易になります。価値判断や概念という「自分が意識していない様々な制約」のもとで思考すれば心は自由に活動できませんので、当然の帰結のように思います。

 

怒りを制御するのは難しい                                    外部の刺激によって怒りが生じるように考えてしまいますが、怒りは、心の中にある「理不尽なことを受け入れられない気持ち」や「自分では解決できない不満や悩み」等があるときに、外部の刺激によって怒りとして発現してしまうもののように思います。「怒りの感情をおさえる」ということでは対処できないのではないかと思います。                               なぜならば「理不尽なことを受け入れられない気持ち」や「自分では解決できない不満悩み」等を心の中に抱えている場合は、怒りを向ける対象を敏感に探し当てて、自分の中で「これは怒ってもいいことだ」という解釈をして、怒りを作り出して自分の感情を解放しているかもしれないからです。つまり外部の刺激を逆手にとって、自己の感情をぶつけてもいい理由を作り出して、怒っていると思えるからです。                                              言い換えれば、怒りやすい人は、怒ること(=瞋)に欲望して(=貪、怒りによって自分の感情を解放することを気持ちよいものと感じ、その機会を探し求めている)と考えた方が、怒りの本質を理解しやすいように思っています。怒ることが「苦」であると感じ、お話したような理解に至ったならば、怒ることはなくなると思います。怒ることが気持ちよい体験と感じているのであれば、怒りを求めているということですから、怒りを抑えることは難しい、と考えると怒をなくすことの難しさが理解できます。

 

妄想を生じないようにするのもまた難しい                            私が瞑想する時、その大半の時間は妄想、つまり今ここにはないことの想像に費やされます。それを一生懸命、呼吸を観る=呼吸に注意を向けることへと切り替えるのですが、なかなか難しいです。想像の内容が、明らかに苦=不快なことであれば比較的簡単に離す(自分が観ているものを自分から離すこと)ことができますが、自分にとって楽しい想像、メリットがありそうな想像はなかなか離すことができません。例えば、こんなことを題材にしてブログを書いたらいいかもしれない、これを中心にしてこういう構成で、などと考えると離すことが難しい、というよりそれを考えることを楽しく感じて、離したくない、という気持ちが生じてきます。離したくないということは、自分の欲望つまり貪瞋痴の貪りの対象となってしまっている、ということです。                           瞑想をする人は、楽しいことや人生の楽しみを捨てなさい、というのではもちろんありません(と考えています。)。私のブログの”妄想”の例でいえば、想像することは楽しいものである、その楽しいと感じることを離したくないと感じている、それは貪りである、と識ることが瞑想のメリットであると思います。それがわかったならば、瞑想中だけは、楽しいと感じ、離したくない対象を、離すことによって「貪り」を離れる訓練をすることができます。その訓練によって、楽しみの対象が、好ましくないもの、自分も周囲も不幸にするものであると識ったときには、楽しみの対象=貪りの対象から離れることができるようになる、ということのように思います。人生は苦だから、楽しみというものは妄想である、すぐに捨てなさい、ということではない、と私は思っています。                全ては自分の中で生起します。自分の中で生起することの解決策は自分の中にあると考えるのが妥当ではないでしょうか。瞑想はその様な考えの者だと思います。

 

妄想を妄想と識別できると、落ち込まなくなります                          「これならうまくいくぞ」「うまくゆかないもうダメかも」どちらも妄想=「自分が心の中に作り出した概念」だと理解できるようになれば気分が落ち込むことはありません。自分の心に生じる感情のおおくは貪=欲から生じるように感じています。                           自分の心に生じる概念を妄想と識るようになると、『自分は「これならうまくゆくぞ」と思っているが、それは自分の期待という気持ちから作り出されたもの=妄想かもしれない、手始めにやってみてうまくゆかなかったら修正してゆこう』、『自分は「うまくゆかないもうダメかも」と思っているがそれは、希望したような成果がでないので満足できず、投げ出したいという自分のわがままな心を満足されるための作り出された妄想であり、現実を反映したものではないかもしれない。今までやってきたことでは成果が出ないというデータが得られたのだから、より成果を出せる別の方法を考えてみよう」と考えられるようになります。                                    

 

想を妄想と識ると、感情に振り回されなくなります                                  妄想を妄想と識るようになると、自分の気持ち(感情)を自分で観察して「合理的でない」と感じたならば、「自分の気持ち(感情)を信じない」という態度になってきます。自分の気持ち、感情を突き放して観ることができるようになり、感情に振り回されることがなくなります。言い換えれば「自分の心に生じたもの」を盲目的に信じなくなります。                           「人は自分が見たいように見る」とよく言われますが、「見たいように見る」ことから離れられる、ということだと言えます。人は時に自分の欲望にたいして都合よく見ることもあれば、もう嫌だという自分の感情に基づいて「こんなことを意味ない」という見方もします。

 

心に生じる感覚、感情は一瞬にして生まれて無くなってゆくもの                        瞑想しているとその様に感じられるようになってきます。心に生じて消えてゆくものを、心が反応して、追い続けるので心から消えず、心は平穏にならず、やがて苦が生じるようになります。消えてゆくものを追い続けるから苦が生じるのでしょう。消えてゆくものは大事にしたいものばかりとは限りません。失敗や屈辱の記憶、これらも生じては消えてゆくはずのものですが、心の中で追い続けるから心が苦しむのです。                                            ヴィパッサナー瞑想は、心に生じたものを生じたと観て、生じたものを「追いかけない」=「執着しない」訓練をします。そして「追いかけない」訓練は「心に生じたもの」が「なぜそれが生じたのか」を観る観察力を養います。「なぜそれが生じたか」を知れば、心に生じたものを「追いかけること」がなくなるでしょう。

 

音楽は「概念」                                           音楽は、一瞬一瞬の音の連続ですが、人はすでに消えた音と現在聞こえた音を総合して「音楽」と認識します。すでに現在はない音も合成して心に生じさせるので音楽は「概念」と言えます。概念は実体としては存在しないものなので、ヴィパッサナー瞑想では「妄想」と認識します。この認識を推し進めてゆけば「失敗や屈辱の記憶」もそれを悔やむ気持ちも、すで存在しないにもかかわらず心に生じるので「概念」つまり「妄想」ということになります。

 

瞑想は道徳論でもない                                      道徳論でないということは、道徳的でないということではなくて、道徳の観点からこうあるべきという方法論ではないということです。別のコラムで、慈悲の瞑想を紹介していますが、慈悲の瞑想は、嫌いな人嫌われている人とも仲良くしなさい、という道徳論ではありません。自分と親しい人大事な人と嫌いな人嫌われている人を区別しないようにしなさい、そうすれば自分の好悪の感情に影響されることなく曇りのない心で物事を見て、適切な判断ができるようになる。そのためには、自分と親しい人大事な人と嫌いな人嫌われている人も等しく「生きとし生けるもの」という考え方でとらえなさい、という方法論であると理解しています。                                慈悲の瞑想は、道徳論としてではなく、また自分に利益があるからという理由からでもなく、慈悲の瞑想の意味するところを理解して自分の「意思」として行えばより大きな効果があるように思います。

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多少のデメリットもありますが智慧が生まれるので、智慧で解決できます             瞑想によって事実と概念(想像=妄想)をより分けるて考えるようになると、事実と概念を混同しているお話や、情緒的なお話を聞くのは少しめんどくさくなってきます。苦と感じるようになります。                                    また心の落ち着きとは、先に述べた昏沈・睡眠の昏沈(心が重く沈み込むこと)でもなく、心が昂揚することでもない状態のようなので、心を昂揚させるような体験を求めなくなります。つまり気持ちが盛り上がることを「快」と感じなくなります。「おもしろいと思って盛り上がりたい人」とは距離を置きたくなるかもしれません。気持ちを昂揚させて消費に結びつけることが行動原理といってもよい資本主義大量消費社会では、見るもの聞くものにうっとおしさを感じるようになるかもしれません。このような反応は、瞑想による心の落ち着きが、今まで感じたことのない心地よいものであることを体験しないと理解できないかもしれません。                                            仮に、気持ちが盛り上がることを「快」と感じなくなったら、人生がつまらなくなるわけではありませんし、結婚するのやめた、ということにはならないでしょうからご安心ください。何が何でも盛り上がれば楽しい、と思わなくなるとご理解ください。                                      瞑想では心の落ち着きが進むと「楽」次いで「喜」が現れてくるとされていますが、昏沈も心の昂揚も「楽」と「喜」の発現を妨げ、「楽」が心に現れれば、心の昂揚すら「苦」と感じるようになるということのようです。瞑想が進んでこのような境地になってくると、周囲の方とのギャップが少しは出てくるでしょう。                                         デメリットといえばデメリットですが、そのくらいまで進めば智慧も出てきますので、周囲の方とのギャップを埋めてうまく付き合う智慧も(自分のなかから )生まれてくるはずです。

 

より瞑想が進展してくると「智慧」が生まれます                             この段階はヴィパッサナー瞑想でいうと「法随観」の段階と思われます。

 

「智慧」のご説明の前に4つの随観をおさらいします                             まず「身随観」によって「体の動き、体に生じる感覚と変化」を観てサティを入れることで明確に体の状態、変化を認識することで集中力と観察力を養います。集中力はサマタ瞑想である「慈悲の瞑想」によっても高められます。「身随観」によって集中力と観察力を養うと意識せずとも「受随観」「心随観」ができるようになります。                                          「受随観」は自分に起こる感情の快不快を観る随観です。不快は「苦」、快は「楽」、快でも不快でもないものは「不苦不楽」とサティをいれることで、「苦」「楽」「不苦不楽」を明確に認識できるようになります。「苦」を感じたときには何を原因として「苦」が「心に生じたのか」を観ます。何を原因として「苦」が心に生じたのかを知れば、原因がなくなれば「苦」を消滅させることができます。自分の身に起こっている事実=「苦」の原因が、例えば過去の記憶であったとするならば、過去は自分の記憶にはありますが現実にはありません。現実にありませんから過去の記憶は「妄想」です。妄想により「苦」が生じているのですから、過去の記憶が妄想であり今ここにはないものと知れば「苦」はなくなります。「妄想」という言葉が受け入れにくいということであれば妄想を「心に生じた実体のない影像」と言い換えてみてください。「苦」を「ストレス」と置き換えるとわかりやすいでしょう。                                                    「心随観」は心の状況を観ます。そして最終的段階では「法随観」に至ります。

 

「法随観」についての私の理解                                  釈迦は死の直前弟子のアーナンダーに次のように語っています「如来は、何事も考えず、なにものも感じないで、心が無想の三昧に入って住するとき、そのようなときこそ、如来は一番安らかである。アーナンダーよ、だからして、自己を洲とし、自己を依処として、他人を依処とすることなく、法を洲として、法を依処として、他を依処とすることなくして住するがよい。」(増谷文雄 筑摩書房刊 阿含経典第3巻 191ページ「2 病」)。                                         この言葉から私が考える「法」とは知識ではなく、一例としてあげるなら、瞑想によって自分に起こっている「苦」、それが起こる原因を観(発見し)て、その原因が消滅することにより「苦」から解放されることを観たうえでの、その一連の「法則性」を観る(理解する)ことをいうのではないかと思います。                                            先に「苦からの解放はその人固有のもの」と説明しました。個人の経験を超越した知識を外部から取り込んだものではなく、自らのうちにおこった変化を自らが観(発見し)て、自らが証(証明)し自らの生き方の規範とするものが「法」ではないかと思います。

 

「法」を観る(発見する)ことが「智慧」                            法を観る(発見する)こと、その過程を経験することが「智慧」を得る(または法を観ることにより獲得される能力)ということではなないと思います。初期仏教(根本仏教や原始仏教とも)は「智慧」と「慈悲」と説明されることが多いようです。まずは自ら苦を滅して「智慧」を得、その「智慧」を慈悲の心をもって他者へ広めてゆくと説明されています。これは釈迦がたどった道筋です。

 

4つの随観(ヴィパッサナー瞑想)の指導書                                4つの随感は、阿含経所収の大念処経に説かれています。刊行書籍としては以下のものがあります。ヴィパッサナー瞑想の手引書としてお読みになるのであれば、スマナサーラ先生の「大念処経」がお勧めです。ヴィパッサナー瞑想を続けていれば、スマナサーラ先生が「大念処経」の中で解説されていることが実感できるようになります。

春秋社刊 原始仏典 第2巻 長部経典Ⅱ 中村元他訳                            サンガ刊 大念処経 アルボムッレ・スマナサーラ   

  

                                   

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